昭和47年8月27日 特別奉修委員
中村良一
奉修委員の方達の、こうして特別の御祈念をなさるということ。しかも、その合楽を中心とした信心。もう自分の我情でもなからなければ我欲でもない。本当に、まぁ言うなら、神様に喜んで頂くこと、絶対間違いないという信心です。それが本当に出来ればですよ。ね。どうぞ一つ、病気を治してください。どうぞお繰り合わせを下さいじゃないでしょうが、今日、みなさんの場合は。どうぞ、親先生の健康をお願い申します。どうぞ合楽教会のことを、または、ご造営が、無事ご成就に相成ります様にと言うのでしょうが。だからもう、絶対、こういう願いが、本当に出来るなら、真実の願いですから、その願いが、願いの光に浴して、皆さんが、その照り返しの光を受けなさらん筈が絶対ないです。けれども、問題がね、それがあの、ほんなもんじゃないなら駄目です、やっぱり。ね。今のその願いが、本当の特別奉修委員という方達の名ばかりじゃ出来んと。それは、本当に特別奉修委員としての、やはり、そのみんな、信心が出来て、そういう祈りが、本当に出来て、あの、その願いそのものが素晴らしいことですから、その願いそのものが持つ光を浴することが出来るんです。
私はあの、今、ご神前で、女の方たちが使われるフライパン。そすとあの、くわいね、野菜の慈姑(くわい)を二品頂いてから、まぁ、判じ文のごたるお知らせは何じゃろうかと、私は、まぁ思うてから、まぁ私が考えたわけなんですけれどもね。もう、知らんこつというのは仕様がないですよね。あのフライパンちゃ、どげなパンじゃろうかち。知らなきゃ仕方がないですもんね。ほんなら、笑いよるけれども、私達でも、そういう様なことを、しゃっち言いよる訳です。だから、いつも、親先生、そげんじゃないですよち言うてから、訂正される訳なんですけれども。まぁ本当、フライパンちゃ、ほんなごて、食べられるパンかと思うとったち言う、やっぱ、人も、やっぱあろうかと思うですよね。けれども、そういう滑稽なことをです、私共も、やっぱり、平気で、知らなければ分からんという事だと思った。慈姑ということは、やっぱ、あの、お芝居なんかで、その、くわいでかということは、食べまいでかという事ですよ。ね。だから、慈姑ということは、食べるということ。とにかく、味わうて見る、味わうということ。ね。だから、ほんなら、信心が有難い有難いというて、どれだけ、ほんなら、信心を味おうているかと。ね。只、お願いをした、こげなおかげを頂いたという様なことは、私は、本当な味わいにならんです。なしかと言うと、あの、そういう願いというものは、成就することに限ってないからです。ね。だから、降っても照っても、やっぱり、おかげと頂けれる味わいこそが、本当な味わいなんです。だから、食べなきゃ分からん。ね。
信心が分からんな、分かった様にするとは、まるきり、私は、滑稽だとこう思う。ね。フライパンちゃ、どげなパンじゃろうかち言いよるとと同じこつだと、私は思うですたい。ね。ですから、せっかく、このような素晴らしい、特別奉修委員という方達、そういうあの、根のもとにです、信心なさるのですから、本当に特別な御祈念が、本当に出来る。しかもその、特別な御祈念というのは、こら絶対、神様がお喜び頂けれるという願いですから。その願いが、薄らぱっとしたもんじゃなくて、芯から、やむにやまれんものから願えれるというのでなからなければ、特別奉修委員の値打ちはなかと思うですたい。ね。そこでですね、その味わいというものを、なるほど、特別の神様がお喜び頂けれることに間違いのないことを祈らせて頂いておるのが、口だけ、態度だけではない。芯からのものであるという味わいをね、一つ、味わって頂きたいと思うですね、お互いが。
先ほど、秋山さんが、今日はあの、教務所主催の総代、それから、次期総代、この次に総代になろうかという人達の研修会といったようなものが、今日の十時から、久留米であるんです。ですから、総代さん、お出でられなきゃならんもんですから。あの、今日は、特別奉修委員の、こう頂きよると、お父さんば送り出すとが遅うなっちゃならんからと、こう言うから。あぁそうたい、ほんにあんたが、清さんの車で来とるけんね、そんなら早う帰らせてもらいなさいと言うて帰ったんです。だから、そのくらいな信心じゃ、絶対、特別奉修委員の味わいは頂かれんですよ。ね。どうぞ皆さん、この辺のところば、よう一つ、分からにゃいかんです。ね。
例えば、そういう、神様に喜んで頂けれる、絶対の真実の願いというものが。その願いの光に照り返されるほどしのおかげを受けられるという信心ですから。そういう信心を味わいたいと思うならね。あぁ今日は、自動車に乗らずに、例えば自転車でお参りしよう。でないと、あの自動車が、ほうからかされたら、あれじゃからとか。または、主人に、ちゃんと、こうして、私が遅うなりますばってんから、あちらは十時ですけん、遅うならんごつ行ってくださいよ。私は今日は、特別奉修委員ですけんと言うとか。ね。もうこれじゃ、全然、特別奉修委員の値打ちはなかです。ですから、私は、お互いの信心は、本当に再検討しなければいけない。特別奉修委員の信心、祈念の修行というものを、もう一遍、検討してみなければいけない。でなかったら、それこそ、フライパンちゃ、どげなパンじゃろうかと言うごたる事じゃなかろうかとこう思うですね。くわいでかと。そういう味わいを、いっちょ、味わあいでかという信心が要るです。これはもう絶対です。今日はもう、自動車に乗せていって貰わにゃ、今日は一つ、昔のごと、単車でいっちょ、お参りさせて貰おう。雨具を着てから、ね。
そして、それこそ、ハツノさんじゃなかばってん、昨日、お取次ぎを頂いて御用をされた。もう、車から降りた途端に土砂降りだった。もうそれこそ、煙るようなお湿りのなかを、濡れながら、例えば行くのが、それが有難うして応えじゃったという意味の事をお届けがあったんです。ね。私は、それが味わいというのじゃなかろうかと思うですね。特別奉修というものを、そのくらいな特別のものとして頂けてから、初めて、特別奉修委員の方達が、特別のご祈念をなさっておるという事になるのじゃないでしょうか。只、これに、つらっと並んで、そん時には、まぁだ一遍も欠かしたことがないというだけのことではなくてですね。そういう素晴らしい信心。そういう素晴らしい祈りのもと。いや、神様がお喜びいただけることは、もう絶対と分かっておる、たとえば、祈りでも、中身がなかったら同じことでしょうが。ね。それは、味わえるために工夫しなければいけないと、私は思うですね。いわゆる、秋山さんの例は、こら一つの例です。お互いのところで、その事を一つ考え、いや、今日は、どうでもこうでもといった様なね。あのするためには、やはり、あの自動車には乗せて貰われんでもです。ね。お父さんには、ちっと不自由かけるかも知れんけれども、一人で頂いて、時間に遅れんで行ってくださいねと。例えば、前の晩からでも言うとくち言うぐらいなです、ね。それがあって、特別奉修委員じゃなかろうかのぅや。どげんでしょうか。ね。でないと、惜しかですよね。ん。名を連ねとるという。只、御祈念に出ておるというだけじゃなくて、そういう私は、あの、特別のというのですから。特別の味わいがあるはずです。ね。
それに、あの、何か知らんけれども、だらっとなったごたる風で、特別奉修委員ち、もうこら、特別奉修委員じゃけん、残らんならんと言うて、残っとって、御祈念をしとるというぐらいな事じゃ、只、御理解を頂くだけで有難いと言うごたる事じゃつまらんと思うです。ね。その特別の、私は、信心をするなら、特別の味わいを味あわせて貰うから特別じゃろうもん。ね。だから、いっちょ、そういう信心を、一つ、そういう信心に、いわば、開眼しなければいけないということですよね。どうぞ。